中園健士ストーリー

こんにちは、中園健士です。

このページでは僕の半生を簡単に紹介します。

借金7000万円からのスタート

僕は25歳の誕生日を迎える直前に、7000万円を失いました。

福岡県の片田舎で会社員の父親、
専業主婦の母親という極々一般的な家庭で生まれ育ち、
小、中、高校と野球少年として日々を過ごしていました。

当時勉強が全くの苦手で成績表は5段階評価で1と2ばかりでした。
(体育だけは毎回5という典型的なアッチ系のタイプですww)

そんな僕が高校生の頃に「大学に行きたい!」と思える出来事がありました。
ニュージーランドへの修学旅行です。当然英語なんて喋れません。
しかし人生で初めての外国、
初めて接する外国人、見る物、触る物、感じる物、
全てが当時の田舎モノまる出しの少年には刺激的すぎました。

そこで感じたのは「自由」。

「英語を喋れれば世界中の人達と喋れて友達になれる。」

そう思い、僕は「英語を話せるようになろう!」と決めたんです。

 

外国語を話せるようになる為の大学に行こう。

そんな思いで高校3年生から予備校の門を叩きました。

しかし、僕が最初に入れられたのは中学校1年生の教室。
あまりに学力がなかった高校3年生の僕は
あろうことか、中1と一緒に学ぶ事からスタートしたのです。

そこで出会ったのが安河内哲也先生という恩師です。

(最近だと東進で有名になりましたよねー)

全教科を学んでいては中学1年生レベルの僕には間に合わない。
そして難易度の高い大学のレベルの試験に
合格する程のレベルに到達するにも非現実的。

そこで僕と安河内先生は国立ではなく私立大学を受験することを選択しました。

とりあえず学びたかった英語。

そして暗記さえすれば頭の良さに関係がない、と思い込んで選んだ日本史。

 

そして出題の難易度が一番低いセンター試験に絞って
この2教科だけを徹底的に勉強した結果、
受験勉強を始めた当時全学年281人中280位だった僕が、
この2教科に関してだけは学年トップになることができました。

(他の教科は相変わらず学年最下位でしたがwww)

 

結果日本で一番アメリカ人留学生が在籍しており、
海外留学制度の充実していた
関西外国語大学に入学することが出来ました。

それは僕にとっての初めての成功体験でした。

努力することの意味、
方向性を間違えずに全力で努力すれば人生何とでもなる、
という今でも僕の教訓になっています。

福岡の片田舎から大都市大阪での初めての一人暮らし、
そしてワクワクしながら大学生活を迎えましたが、
そこには帰国子女や、
既に数ヶ国語を自在に操る天才達がひしめく場所でした。

 

英語が出来るのは当たり前

 

大学はそんな空間でした。

大学受験のための勉強で、英語を読む力や書く力は身につきましたが

実践で話す力は身につきませんでした。

今後は自分一人での戦いです。
全力でアルバイトして貯めたお金を使って、
バックパッカーとして世界中を一人旅しました。
1泊500円程度の水シャワーしか出ない安宿に泊まり歩き、
合計27カ国、5大大陸を周ったんです。

 

中には1ヶ月間レストランでタダ働きするから
3食と宿を提供して欲しいと交渉して、成功したりもしました。

そんな中、卒業が近づくにつれ、同級生達は就職活動を始めていました。

 

 

就職して自由を奪われてたまるか

そう思った僕は本屋さんに駆け込み、就職しなくても、
世界中を旅行しながらでも食べていける方法がないのか、
徹底的に探していました。

そこで出会ったのがFX,というものでした。

2003年当時世間ではまだ全くの無名のFX、
大型書店に行ってもFXの関連本はその1冊だけしかありませんでした。
(今では山のように陳列されていますが)

受験勉強時代を思い出し、
徹底的にノウハウを勉強し、瞬く間に資産が激増していきました。

 

 

大学生時代の月収は300万円

もう就職するのが馬鹿らしく思えてきました。

自分が望んだように、
そのお金を使い自由に、行きたい時に行きたい場所へ、
食べたい時に食べたい物を、これが自分の望んだ自由だ、
と確信していました。

今振り返ってみると当然の事ですが、
そんな生活が永遠と続くはずがありません。

あるきっかけがあって、大きく失敗し
20代としては考えられない借金を抱えることになります。

崩壊・・・残ったのは7000万円の借金

もう冗談ではなく、死のうと思いました。
普通にサラリーマンをしても返済はいつまで続くのか?
というか就職出来るの?

誰でも受かると言われた
某自動車組立工場の朝・夜交代勤務の住込みの期間工として半年間働きました。
(面接が握力検査という・・)

そこで当時ブラック企業だが、
給料が良いと言われた不動産業に就く為に、
同時進行で宅地建物取引主任者の資格を取得して、
半年後上京しました。

休みは1ヶ月に1日のみ。朝の9時半から夜の10時まで。
借金を抱えた僕には休んでいる暇などありませんでした。

激務に挑戦している中、
更なる試練が僕に襲いかかってきました。

 

追徴税1000万円を支払って下さい。

FX時代に稼いでいた分の税金(所得税)が失ってから、
督促状という恐ろしい文書で告知されました。

気合いと根性だけで不動産会社のナンバーワン営業マンとなり、
そこそこの収入を得るようになりましたが、
税金を返すだけで精一杯の毎日が続きました。

起業・不動産会社設立へ

このままではラットレースから抜けられない、
そう感じた僕は
当時のトップセラーを集めて不動産会社を創業役員として起業しました。

創業から半年後には日本中にある賃貸不動産仲介会社で、
1店舗当たりの売上で日本一になりました。

店舗展開、従業員の増加、瞬く間に大きく成長していく中、
社長の出社が朝から昼へ、昼から夕方へと段々遅くなっていき、
家賃30万円のマンションを借りるから、
と典型的な勘違い社長へとなってしまったのです。
そうさせてしまったのも僕達の責任なので、
創業役員全員で社長に直談判しました。

「全員会社の鍵を出して。クビだから」

 

まさかのクビ宣告。
日本一の不動産会社からいきなりの無職になってしまいました。

組織の中では一つの歯車に過ぎず、
自分一人でも稼げる仕組みがないとやはりキツいな、
と再認識しました。

輸出スクール入学 2013年12月

ネットサーフィンをしながら、
稼げる系の情報を探している中、
稼げる人を創出しまくっていた、
辻本良久さんが輸出スクールを開校していました。

その方は僕の東京での兄貴分、
兼師匠である天堤太朗さんの義兄、
そしてその身内である師匠も一緒にスクールに入学する、
という事態にww

それが2013年の12月の出来事でした。

言われた事をそのままやりました。
それだけの事ですが、
たった数ヶ月で日本で一番と言われた
不動産会社の収入を上回ってしまったのです。

そして、輸出を始めてからまだ半年でしたが、
辻本さんから同スクールの講師にと引き上げてもらい、
スクールの動画コンテンツをほぼ全て自分で作り上げて、
結果として今までの輸出スクールの中でも稼げた生徒が
圧倒的にナンバーワンという実績を誇るスクールに
育て上げることが出来ました。

そこで僕が知った初めての喜び。

自分の生徒を稼がせる

これは本当に嬉しかった。
資金が限りなくゼロに近い状態の転売ド素人の女性が
4ヶ月後の卒業月に月収12万円、
輸出に初めて取りかかる地方在住の方が卒業月に月収36万円。

毎日の様に喜びの声、感謝の声を頂く毎日。
これには自分が稼げた時よりも断然嬉しく、
僕にとっての絶頂の喜びとなりました。

参加者全員最低月収5万円プロジェクト主宰

現在は75名以上が最低月収10万円以上の
実績を残した最低5万円必達プロジェクトを主宰しており、
24時間体制で生徒全員が本当に稼ぐ為に
日々過ごしています。

中園 健士

座右の銘「人生は出会いで変わる」